母の誕生日(平成12年1月26日の日記より)
平成12年冬、柏がんセンターの一室。
「1月26日まで、母は生きていられますか?」と主治医に聞くと、「う~ん、難しいですね」との返事だった。いつ逝ってしまっても不思議ではない。だけど1月26日になれば、たとえ意識がなくとも、母は63歳になれる。ひとつでも歳を重ねれば、母も少しは満足するのではないか、私はそう思っていた。
誕生日の前日、1月25日は時計と睨めっこだった。「はやく26日になってくれ」。あと10時間、5時間、1時間・・・。母は瞬(まばた)きをするものの、もう何の反応も示さない。それでも生きている。頑張れ頑張れ。もう少しだよ。もう少しで63歳だよ。
1月26日午前0時になる。「よっしゃ、母さん、誕生日おめでとう」。
深夜の病室で一人、小声で母に話しかける。もちろん返事はない。聞こえているのかな。
私はこのときのために、ショートケーキと小さなワインボトルを用意していた。「では誕生日会をしようかね」。ケーキにローソクを3本立てて、コップにワインを注いで・・・。
病室でアルコールは厳禁だが、実際に飲むわけではない。もし見つかっても、看護師さんは大目に見てくれるだろう。
昏睡状態の母は、もう食べたり、飲んだりはできない。だからワインを人差し指に少しつけて、濡れた指先を母の唇にそっとつけた。かさついた唇にワインがしみたのだろう。母は少し顔をしかめた。「あっ、ごめん」。思わず狼狽した。続いてケーキ。これもクリームを少し唇に塗った。そして誕生会は終わった。
母は病が発見されてから、誰の予想より長く生きた。「最後の親孝行。少しでも長く生き永らえるように」と思っていたが、それは私の思い上がりだったのかもしれない。母のほうが、「家族が納得するまでは」と頑張って生きてくれていたのではないか。
1月26日、午後8時。コトリと母は息をひきとる。
昭和12年1月26日に生まれた母は、平成12年1月26日に天国に旅立った。
かっこいいよ母さん。最期のときをいつ迎えるかまで、シャレ者で強気なあなたらしく、自分で決めていたんですね。
今日の写真は、母が気に入っていた我が家の冠木門です。今日の内容は、少し物悲しいものになってしまいました。ごめんなさい。
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