映画『ラーゲリより愛を込めて』を観て

感動的な映画でした。多くの観客がすすり泣きをしていました。ではあらすじを紹介します。


終戦の1945年。零下40度の厳寒のシベリアへ向かう汽車に山本旗男(はたお)はいた。行先は、捕虜の日本兵に僅かな食料で過酷な労働を課し、死者が続出する地獄の強制収容所(ラーゲリ)だ。誰もが絶望的になっているのに、山本はひとり大きな声で歌う。皆、「彼は少し変だ」と思った。

「生きる希望を捨ててはいけません。帰国の日は必ずやって来ます」と絶望する抑留者たちに、山本は訴え続けた。山本はロシア文学愛好者でロシア語の通訳もできたので、ソ連軍将校に抑留者たちの過酷な状況を訴えていたが、反抗的だと彼はしばしば懲罰を受けた。

終戦からしばらくたち、日本への帰国が決まりかけたが、山本を含む運の悪い者たちは、帰国できなかった。彼らはソ連の軍法会議にかけられ、身に覚えのないスパイ容疑で25年の強制労働を言い渡された。

再び強制労働の日々が始まった。劣悪な環境下、誰もが心を閉ざすなか、山本は日本にいる妻や4人の子どもと一緒に過ごす日々が訪れることを信じ、苦しさに耐えた。彼は皆を励まし続けた。そんな彼の行動と信念は、凍っていた抑留者たちの心を次第に溶かしていった。

終戦から8年。誰もが帰国の日が近づいていると感じていたが、その頃から、山本は咳をし出す。ある日、突然ひどい頭痛に見舞われ気を失う。一時は回復したが、以来、度々倒れるようになっていった。

抑留者の一部が、ストライキを始めた。要求は一つ、「山本を病院で検査を受けさせてやってほしい」。ストライキの輪は強制収容所全体に広がり、ついに山本は病院で診断を受けた。

しかし、そこで告げられた病名は「のどの癌」で余命3ヶ月。山本の症状は重くなるばかりだった。

それでも家族との再会を夢見る山本だが、仲間たちは、家族へ遺書を書くように進言した。山本は進言を受け止め、震える手で家族への想いを込めた遺書を書いた。

ついに山本はその生涯を閉じた。仲間に託された彼の遺書は、帰国まで大切に保管されるはずだった。しかし収容所内では、文字を残すことはスパイ行為とみなされ、遺書は没収されてしまった。それからしばらくして、最後の引揚げ船で皆が帰国できることになった。

終戦から11年がたった頃、山本家に次々と山本の遺書が届いた。

「文字ではスパイ容疑で没収されるから」と山本と親交のあった4人が、4通の遺書の全文をそれぞれが分担して、苦しい労働のなかで記憶したのだ。山本家へと来訪した彼らは「山本の遺書を届けました」と告げるとともに遺書を暗唱し、そのあと清書した遺書を家族に渡した。


それでは、その遺書とはどんな内容だったのでしょうか。山本が家族にあてて書いた遺書は全部で4通でした。家族全員宛て、母宛て、妻宛て、そして子どもたち宛てのものです。どの遺書にも「病気せずに、怪我をしないよう、健康第一に過ごしてほしい」と書き綴ってありました。ここでは子どもたちに宛てた遺書の一部を紹介します。これこそ、山本の生き方が滲み出ている文章(遺書)だと思うからです。

『君たちはどんな辛い日があろうとも、どこまでも真面目な、人道に基ずく自由、博愛、幸福、正義の道をすすんでくれ。立身出世などどうでもいい。最後に勝つのは、道義であり、誠であり、まごころである。人の世話にはならず、人の世話はすすんでせよ。日々の生活のなかで、ある程度の打算や功利もやむを得ないかもしれない。しかし度を越してはいかんぞ。最後に勝つものは道義だぞ。君たちが立派に成長していくことを信じて、私は満足して死んでいく。どうか健康に幸福に生きてくれ。長生きしておくれ』。

おうちカフェ さんちゃん

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