粗忽長屋(雷門)

先日、このブログで浅草寺の切り絵を紹介しました。そして浅草寺と言えば雷門です。昨日、雷門から至近にある美味しいおでん屋さんで、友人たちとグラスを傾けました。楽しいひとときでした。

お盆期間ということもあり、雷門は人で溢れていました。今日は、人だかりの雷門から始まる有名な落語『粗忽長屋(そこつながや)』について書きます。まずはあらすじを紹介。

同じ長屋に住む、八五郎と熊五郎は兄弟のように仲がいい。

ある日、日課である浅草寺の観音様詣に来た八五郎は、その帰りに雷門前の人だかりに気づく。聞くと「行き倒れだ」とのこと。死体を確認した八五郎は「こいつは、今朝会った熊五郎だ」と言う。

しかし役人は「こいつは昨晩からここにいるから、お前が言ってるのとは別人だ」と説明するが、熊五郎は「当人は死んでるのを忘れてんだよ、当人をここへ連れて来るよ」と言い残し、急いで長屋へ戻った。

八五郎から話を聞いた熊五郎は「そんなはずはない」と反論するが「お前は粗忽者(そそっかしい人)だから自分が死んだことに気づいてないんだ」などと言われ、納得してしまう。

自分の死体を引き取るために、熊五郎は八五郎と一緒に浅草観音へ向かう。死体を確認した後、死体が自分であると熊五郎は納得した。死骸を2人で持ち上げようとすると役人に、「(死骸は)お前さんじゃないんだから」と諭される。「いいから遠慮するな、自分の死骸なんだから」と遠慮せずに死骸を抱いてしまうことを促す八五郎。

すると熊五郎が「でも兄貴、なんだかわからなくなっちゃった。抱かれているのはたしかにおれだけれど、抱いてるおれは、一体どこのだれなんだろう」と言う。

自分が死んだと素直に思い込み、自分の死体を引取りに行くという非常識が噺のテーマであり、笑いの源泉です。笑いと言うのは、日常生活のなかのささやかな異変です。「行き倒れだ」と雷門前に人だかりが出来て、皆で普通に「こいつは誰だ?」と探しても当たり前すぎて笑いは生まれません。「こいつは、今朝会った熊五郎だ。そそっかしいから自分が死んだことに気づいてない」と言うから面白いのです。

『粗忽長屋』の原形が出来たのは200年以上前です。浅草を訪れる人は、この名作落語を知っておくといいと思います。

雷門で思い出した話しをもうひとつ。私は高校生のとき剣道部で坊主頭でした。その日、何故か雷門付近を歩いていたら、宣教師のような外国人に「あなたは神を信じますか?」と声をかけられました。昔はそういう人が結構いました。私は急いでいました。話す時間はありません。「私は仏陀です」と答えました。外国人の方に、和風の洒落は通じなかったみたいです。

おうちカフェ さんちゃん

こんにちは!「おうちカフェさんちゃん」です。皆様が気楽でのんびり過ごしていただけるお店です。季節の移ろいを丸窓から眺めながら一息つきに来てくださいね。

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