映画『悪は存在しない』を観て

(あらすじ)

自然に恵まれた長野県の田舎町でつつましく暮らす巧(たくみ)と娘の花(はな)。ある日、巧の家の近くにグランピング施設を作る計画が持ち上がる。それは経営難に陥った芸能事務所が、国からの補助金を得て計画したものだ。そして彼らが、町の水源に汚水を排水しようとしていることが判明する。

町はグランピング計画に動揺を隠せない。肯定派はいない。当然の対立だ。「他者にとって微細なことでも、自分にとっては譲れない障壁」ということは多々ある。説明会における、住人の種々の発言や態度は、個々の心中で渦巻く葛藤だ。攻撃的で感情的である。

そんな中、主人公であり、『町の便利屋』の巧は冷静だった。町の理性として、あらゆる感情を調整しているかのように見える。他者との疎通の可能性を示し、ぶっきらぼうに静かに歩み寄っていく様子は、意思疎通の1つの形だ。一面では語り切れない”悪”らしき他者を真っ直ぐ見つめようとする。

物語で“悪”らしき芸能事務所側の事情を描写するシーンがある。“悪”に見える振る舞いにもそうせざるを得ない理由がある。説明会で批判の矢面に立つ担当者の心の揺らぎも、企業組織という人格が抱える葛藤として示される。組織の論理から解放されたときに見える本心は、観ていてほっとする。

事務所側もまた、別のやり方で他者との疎通の可能性を探ろうとする。虚飾に塗れた言葉や利益追求ではなく、身体感覚を通して相手の心を知ろうとする一面もあった。これもまたコミュニケーションの形である。そのあり方は“悪”とは言い切れない。

物語は淡々と、微妙なバランスで意思疎通の可能性を探り合う。人の持つ心の柔らかさが垣間見えてくる。雄大な自然と滑稽な都会を対比しながら、その境界が滲んでいくようだった。

しかしラスト10分。物語は不気味なものへと急変する。これまでのストーリーは『悪は存在しない』という題のための伏線だったのか。

(感想 結末についても触れます)

物語の終盤。巧の娘の花が、学童保育の帰りに行方不明になります。町中の人々で探し周り、東京から来ていた芸能事務所の担当者も一緒に捜索を行いました。そして巧と担当者が、鹿の水飲み場で花を発見します。しかし花は、人を襲うとされる、狩猟により、手負いの鹿と見つめ合った状態でした。

担当者が花を助けようとした瞬間、なぜか巧が彼を絞め落とします。カメラが切り替わると花は、その場に倒れていました。巧は花を運び出します。担当者は意識を取り戻し、一度は起き上がりました。巧の息遣いだけが聞こえる中、森を抜けるシーンを下から上を見上げる映像で、映画は幕を閉じます。

突発的で唐突な結末でした。ここまでの意思疎通の可能性の話が全て無に返す、暴力的な結末です。

人は、成長すると自分の中にある悪を自覚し、悪を自分の心にも感じるようになります。罪悪感ですね。それがあるから、「自分と似ている」と他者のズルい気持ちも理解できるのでしょう。大切な概念です。

この物語は、自然の中で発生したものである以上、悪は存在しない。また手負いの鹿が花を襲ったのも自然の反応であり、そこに悪は存在しない。全ては自然から始まり、自然へと還っていく映画であり、そこに悪は存在しません。しかし、巧には、自然と共に生きてきたゆえの罪悪感が生まれました。そして「土足で踏み入れてきた罪が芸能事務所にある。悪の根本は存在している」と発作的に思ってしまったのではないか。そこに「誰かのせいにしてしまう」という人の根源的な不気味さがあります。

この映画に謎解きの解答は準備されていません。しかし私はこうも思いました。巧は「町の便利屋」と呼ばれていましたが、実はもっと恐ろしい存在なのではないか。考え過ぎかなあ。

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