走れメロス考

「メロスは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かなければならぬと決意した。」太宰治の『走れメロス』の冒頭部分です。中学2年生の国語に出てきました。国語の教科担任が暗唱にやたら熱心で、できないといつまでも立たせられたので、50年近くたった今でもすらすら出てきます。できるまで立たせておくなんて、今ではとても考えられませんが、あのころは立たせる方も立たせられる方も、極めて当然と思ってやっていました。「じゃちぼうぎゃく」はなんとなく荒々しい感じがする言葉なので、男子は喜んで唱えていたし、そのようすを「バカな子たち」と横目で女子が見ていたのが昨日のようです。

妹の結婚式の準備のために、田舎の羊飼いのメロスが都に出てきます。人を疑い処刑を繰り返す王のために、都の雰囲気は最低。それを聞いて激怒したメロスが、王を殺すために城にやってきます。当然すぐ捕まるわけですが、田舎の妹の結婚式を済ませるために、3日の猶予を求め、人質として親友のセリヌンティウスを差し出します。無事結婚式を済ませた後、都に戻る道では大水であふれかえる川があったり、山賊が出たりと困難山積ですが、すべてクリアして都に着いたときは、親友が高々と磔にされるところでした。その足下にすがりつき縄を解かせた後、「途中で都に戻らないことを考えた私を殴れ」とメロスは言い、それに対して「戻ってこないと少しでも疑った私を殴れ」とセリヌンティウスが返します。お互い殴り合った後ひしと抱き合う二人を見て、おまえたちの仲間に私も入れてほしいという王が出てきて、大団円となります。

中学生に対しては、友情の尊さ、人を信じることの美しさが主題だと教えるところなのでしょう。お手軽にウィキペディアを見ても、そんなことが書いてありました。

でも、私たちのクラスの国語教師は、友人を人質に差し出すメロスは自己中心のかたまりだとか、そんな条件下で人を信用できるものなのかとか、およそ中学生2年の少年少女には似つかわしくない問題提起をし続けてくれました。他の国語の先生のクラスでは、友情云々という結論でまとまっていましたが、そんな違いがあの当時は問題にならなかったんでしょうね。定期テストの時はどうクリアしたのか、全く記憶がありません。

大人になって経験を積み、小説はいったん作者の手元を離れたらどう読むかは読者の勝手と知りました。また、人間には他を押しのけてでも自分を生かしたいという獣の部分があることを見れば、あの先生の言わんとしたことはもっともだとは思いますが、その年代年代に合わせた読み方は大切なんじゃないかなと思っています。ちなみに寺山修司は、メロスに「自己中心性・自己陶酔の象徴」というレッテルを貼っていたようで、あの先生もこれに触発されたのかもしれません。「人を信じて傷つく方がいい」と武田鉄矢は歌いましたが、実際傷つくのも嫌だしなあ。

今日の切り絵は「走れメロス」です。

おうちカフェ さんちゃん

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