真景累が淵(しんけいかさねがふち)考 茨城県常総市 法蔵寺(ほうぞうじ)

 教員をしていたころの同僚に、飲み友だちがいます。彼は茨城県の常総市に住んでいます。先日飲んだときに、恐いよ恐いよの稲川淳二は出るけど、昔は夏というと必ず放映されていた怪談の映画が最近は全くないよねという話になりました。その一つに「真景累が淵」がありますが、あの話の舞台は彼の自宅から4㎞ほど離れたところにあるのだそうです。

下総国岡田郡羽生村(現在の茨城県常総市羽生町)に、名主を務める与右衛門という男がいました。彼が迎えた後妻の「すぎ」には「助(すけ)」という連れ子がいました。助は生まれつき顔が醜く、足が不自由だったので、与右衛門はことあるごとにその連れ子を嫌っていました。夫の歓心を得たい母のすぎは、ある日の農作業の帰り、無邪気に前を歩く助の脳天に鎌を振り下ろし、夕闇迫る鬼怒川にその死骸を投げ捨てるのでした。

その後二人の間には女の子が生まれます。助を女にしたような顔立ちで、助と同じように足の不自由な子どもでした。彼女は累(るい)と名づけられましたが、人々は助を重ねたようだと噂をして、「るい」ではなく「かさね」と呼ぶようになりました。

その後、両親を相次いで亡くし、ひとりぼっちになった累のもとに谷五郎という旅の者が寄りつきます。病気で苦しんでいた谷五郎を看病するうちに、二人は結ばれ、谷五郎は二代目与右衛門として婿に迎えられました。二人で暮らすうちに、谷五郎は親身に看病してもらった恩を忘れ、醜い累をうとましく思うようになります。8月のある日の夕方、谷五郎は、農作業を終えて家路を急ぐ累を、折から増水していた鬼怒川に突き落としました。続いて自分も川に飛び込むと、助けを求める彼女の口に砂を押し詰め、殺してしまいます。

じゃま者がいなくなった谷五郎は、何人も後妻を迎えますが次々と亡くなってしまいます。6番目に迎えた「きよ」との間にようやく「きく」という娘が生まれます。きくが14歳になったある日、「私はきくではない、26年前に谷五郎に殺された累だ」と言い出しました。恐ろしい形相で叫び狂うきくを村人はどうすることもできず、たまたま近くの寺に滞在していた祐天という上人に怨霊の解脱をお願いしました。祐天上人は累の怨念、さらにさかのぼって助の怨念を慰め、成仏させたという話です。累の墓は、今も常総市羽生町の法蔵寺にあります。

「醜さ」とか「障がい」とかがこの怪談を成立させるキーワードである以上、人権に配慮し差別をなくそうと努めている現代に、テレビで放映することはなかなか難しいと思います。地元の高校で定年を迎えた彼も、江戸時代に歌舞伎や文楽に仕立てられたり、三遊亭円朝が落語の演目に仕上げた話なので、地元の文化として伝えたいとは思うものの、教室で生徒を前にするといろいろ配慮する必要があるから、結局は話さなかったと言っていました。そういった点では、お岩さんが出てくる四谷怪談も、今では放映しにくいのかもしれません。

今日の写真は4枚です。友人が送ってくれました。上から順に簡単に説明します。

一番上は茨城県常総市法蔵寺の山門です。2番目は累のお墓です。3番目は茨城県常総市教育委員会が建てた説明板です。

一番下が現在の「累が淵」です。画面中央右下がりにこんもりしている部分は中州。その手前の夏草が沈んで見えるところが、正に「累が淵」です。鬼怒川に沿った場所にあります。

「真景累が淵」の物語が、これからも歌舞伎、文楽、落語の演目にかかることを望みます。そのことが悲しい運命を辿った登場人物の供養につながるように思います。

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