映画『来し方行く末(こしかたゆくすえ)』を観て
(あらすじ)
舞台は中国の北京郊外。主人公のウェンは、目標である脚本家として商業的デビューが叶わない。「ドラマ性が乏しい」というのが理由だ。それを克服するため、人の悲しみに暮れる場面が溢れる葬儀場の見学に通っている間に、〈弔辞の代筆業〉のアルバイト始めた。今ではそれで生計を立てている。丁寧な取材による弔辞は好評だが、「弔辞が私も持つ故人の印象と違う」などと、ときにクレームもつけられる。「事実は人によって違います」とウェンは答える。
彼も間もなく40歳だ。「本当に、自分がやりたいのは、これなのか」と、時間を見つけては動物園へ行き、自問自答を繰り返す。彼が弔辞を依頼したのは、こんな人たちだ。「同居していた父親との交流が少なかった男性」。「旧来から仲間の突然死に戸惑う経営者」。「余命宣告を受けて自身の弔辞を依頼する婦人」。「ネットで知り合った顔も知らない声優仲間を探す女性」。様々な境遇の依頼主たちとの交流を通して、ウェンの中で止まっていた時間がゆっくりと進みだす。
(感想など)
「他人の弔辞を書くのは大変だろうなあ」と思いながら、この映画を観ました。弔辞には、その人を称えること、起承転結があること、感動させることが必要です。「でも、演劇と違って、実際の人生には第2幕までしかないから」というセリフがありました。確かにそのとおりだと思いました。
人生には、トラブルがつきものです。見事に解決できることは稀であり、だいたいは、それと共存して生きていき、やがて死んでいくのだと思います。2幕もあれば十分です。運良く成功した人の物語も同じです。映画の中で、ウェンが書いた弔辞は読まれません。だから何故、評判がいいのか分かりません。多分彼は、取材を繰り返すことで、個人のささやかな物語を紡いでいたのだと思います。
葬儀での主人公は故人です。そして「死人に口なし」です。もっと褒めて欲しくても、叶いません。弔辞は残された者への文章だと思います。それは成功や勝利によって、故人の偉業を定義するものではなく、些細な失敗や他愛のないエピソードのなかから、故人の本物の偉業を見つけるものだと思います。
人生や近しい人との別れについて、示唆に富む素晴らしい作品だと思いました。
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