間違った情報を流してしまったら
今から100年以上前の、当時の日本を代表する物理学者 寺田寅彦の随筆に「新聞は、なくなっても差し支えないのではないか」と書いてありました。私も、そう思うことがあります。
今の報道は、「早く早く、衝撃的に」が先に立ち、「正確さ」が追い付いていないような気がします。急ぐゆえの、論評のいい加減さも気になります。
確かに、株式についてなどは、投資をしている人たちや金融関係者には、いち早い情報が必要だと思います。しかし、私のように、株もやらず、地道に小商いだけをしている者には、いち早い情報は、あまり必要がありません。それより大切なのは、スーパーの安売り広告です。新聞には、何でも喫緊の課題として、不安を煽るのではなく、「少し遅れてもいいから、正しい情報が欲しいなあ」と思います。なにより、物事は大体の場合において、最終的には、常識の線でおさまります。
次に新聞の社会面について書きます。前述の随筆には、こう書いてありました。「この世の『罪』の詳細の記事を一日も早く、歪められた形で、私たちに知らせる必要があるのかわからない。読者の好奇心を満足させ、話題を提供するというのは明らかであるが、正確さに欠けるものも多い」。全くそのとおりです。冤罪のときもあります。追随するネットやSNSも恐ろしいです。完全に正確であると裏付けをとってから、報道するべきではないか。「我先に」と急ぐ必要はありません。そして、もし間違った情報を発信してしまったなら、第一報を発信してしまったときと同じ熱意と、同じくらいの文字数で謝罪と訂正をする必要があると、私は思います。
こんな研究結果があります。ある事案で、特定の個人が色々なメディアで酷く叩かれた。その人は大変な誹謗中傷を受けた。しかし、やがて、それは全くの濡れ衣であることがわかった。そのことを、新聞はほとんど報道しない。そのことについて、新聞が費やした文字数を数値化した研究者がいます。
当初の誤った報道に費やした文字数 : 新たな真実について費やした文字数 = 98 : 2
誤った事実認定で「悪人」とされた人は、ずっと苦しむしかないというのは、今も昔も同じです。
今日の切り絵は、「キチンと新聞を読もう」です。
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