何回も読み返している短編小説
初めて読んだのは10代の頃ですが、以来、今まで生きてきて、何度も読み返した短編小説があります。『補陀落渡海記(ふだらくとかいき)』(著 井上靖 1962年)です。
ひとりのお坊さんの死を描いた、恐ろしい物語です。お坊さんは小舟に乗せられ、座ったままの姿勢の上からすっぽり箱をかぶせられ、その箱は外れないようにしっかりと、舟底に打ちつけられます。狭い暗闇に閉じこめられた状態で、海に流されたお坊さんを待ちうけているのは、わずかな食料が尽きて餓死するか、海が荒れて溺死するか、いずれにしても安楽とは言えない死です。
主人公のお坊さん、金光坊(こんこうぼう)の年齢は、61歳。まだ60代になったばかりで、「一体なんのために?」、「誰のために?」、「自分の死が何かの役に立つのか?」、「無駄死なのか?」…、全部がわからないまま、死出の旅に向かう舟に乗りこまざるを得ませんでした。「そろそろ君の順番でしょう」という宗教的圧力です。彼は死に対する恐怖に苛まれます。
金光坊は、補陀落渡海する心の準備ができていませんでした。彼は、既に渡海により殉教した先輩の僧侶の顔を思い出し、親しみも懐なつかしさも感じましたが、崇高な人たちだったと思えませんでした。
最後はどうなるのか。わかっているのに、そこに至るまでのお坊さんの葛藤を何度も文字で味わいたい。するめのように、噛んで、噛んで。これこそが小説を読む喜びです。
さて、金光坊は1回目で死ねなくて、生きて島へ辿り着き「助かった」と安堵し、束の間の喜びを味わいます。だが、ふたたび舟に乗せられました。「助けてくれ」と言う彼の願いが叶いませんでした。
金光坊が最期に残した漢文は以下のとおりです。「蓬来身裡十二棲、唯心浄土己心弥陀」、「求観音者不心補陀求補陀者不心海」。こんな意味だと思います。「仏のいる極楽浄土とは、己の心の中に存在するのだ。だから観音を信仰するということは、補陀落山のあるという海の彼方に理想を思い描くことではない」。彼の、激しい怒りと抗議に貫かれたものだったと思います。
この小説の舞台は16世紀、戦国時代の頃です。金光坊の死を契機に、このおぞましい風習はなくなったそうです。そしてこの実話を基に、井上靖は豊饒たる短編小説を書きました。
お坊さんという、日頃から人の生死の身近に感じる者が、自分の生死についてどう感じるのか、稀代のストーリーテラーの井上靖(1907年~1991年)が、僅か30ページのなかに描き切った傑作だと思います。
今日の切り絵は、海原に浮かぶ小舟です。
#補陀落渡海記#井上靖#死生観#宗教#住職#切り絵#おうちカフェさんちゃん#おうちカフェ#小さいカフェ#柏市
0コメント