映画『せかいのおきく』を観て
幕末、舞台は1859年から1861年までの江戸。その時代の底辺を生きた下層の人物たちを描いた時代劇でした。美しいモノクロ映像で、温かい人情、青春の煌き、逞しさが心に響く佳作でした。ではあらすじを紹介。
おきくは父と貧乏長屋住まいだ。父はかつて幕府の勘定方の役人だった。実直な人物で、内部告発をしたために職を解かれ浪人となっていた。おきくも父も長屋の住人たちも、貧しいながらも生き生きと日々の暮らしを営んでいた。そんな中には、糞尿を売り買いする若者の中次と矢亮もいた。若い彼らは「くさい汚い」と罵られながら、いつか読み書きを覚えて世の中を変えてみたいと希望を捨てていなかった。お金もモノもないけれど、人と繋がることを恐れずに、前を向いて生きていた。
ある日、3人の武士がやってきた。父の正義感を恐れる幕府側の者たちだ。おきくも短刀を帯に差して後を追った。結果としては、父は切られて亡くなった。おきくは喉を切られて声を失った。
おきくは中次に恋をした。中次は身分が違うと戸惑う。雪の日、おきくは中次の長屋を訪ねた。中次は留守だった。寒い中じっと待った。帰ってきた中次に、おきくは身振り手振りで必死に気持ちを伝えようとした。そして二人は抱き合う。中次は文字を教えて欲しいと言った。
おきくは寺小屋で子どもたちに文字を教えていた。そこには中次の姿もあった。おきくが今日のお題ということで「せかい」と書く。当時、まだ「せかい」という言葉は一般的ではなかった。
ラストシーン。おきくと中次と矢亮の3人は戯れながら楽しそうに歩いている。そう、この「せかい」は希望の未来に続いている。
この映画は時代劇です。ここではこの作品が示す現代的意義について書きたいと思います。
① 若い二人の恋物語から見えるもの
この映画は「声を失ったおきく」と「字の読めない中次」の恋物語です。この時代、まだ手話はありませんでした。おきくは自分の意志を、身振り手振りで伝えるしかありません。中次は文字が読めないのです。二人の意思伝達はなかなかうまくいかない。でも懸命に何度も何度も身振り手振りを繰り返し、その障壁を乗り越えていきます。彼らの懸命な姿はいじらしく、この映画の見所です。そして脇役として登場した僧侶に、こんなセリフがありました。「役割って字は、役を割ると書きますでしょ。その役目をふたつに割ってやればいい」。インクルーシブ社会の本質を突く言葉だと思いました。
② 清潔な社会の実現
色々と調べてみると、私には幕末期の社会の衛生状況について間違った認識がありました。「西洋はすすんでいて、日本は遅れていた」という認識です。幕末期において、西洋ではどんな絵画が主流になっていたか。印象派です。モネ、ルノワール、シスレー、マネ、ピサロ、セザンヌ…。彼らが描いた美しい風景は、西洋の清潔をも物語っていると思っていました。でも当時、西洋における糞尿は、川に直接流されたり、道端に放置されていたりと、かなり不衛生なものでした。一方、日本ではどうか。「糞尿を畑にまき、野菜を作り、その野菜を食べ、また糞尿になる」という世界で最先端の循環型社会が確立し、高いレベルで衛生環境が保たれていました。それを支えていたのが、「くさい汚い」と罵られも、それを生業としていた中次や矢亮のような下層な人々です。彼らの逞しさが世の中を支えていました。
障がいがある人と共生できる社会、自然と共生できる社会の実現が、今の「せかい」のテーマです。『せかいのおきく』とは旨いタイトルだと思いました。
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