映画『瞳をとじて』を観て
(あらすじ)
1990年、映画『別れのまなざし』の撮影中、主演のフリオが失踪する。その映画の舞台は1947年。あらすじは、娘と生き別れになった有力者が、フリオが演じる男に娘を探し出すよう依頼するものだった。
さて、フリオの靴が、近くの崖から発見され、警察は投身自殺だと判断したが、遺体は出なかった。
21年が経った、2012年。スペインのマドリードで。フリオの失踪がドキュメンタリー番組『未解決事件』に取り上げられた。『別れのまなざし』の監督でありフリオの親友のミゲルは、インタビューを受けることになる。
ミゲルはインタビューに協力するため、フリオの娘のアナや、かつての撮影仲間などと話しをした。
巷では「ゴシップ報道のように女性関係で何かあったのでは?」とか「老いには逆らうことが出来ず、現実から姿を消し映画の中だけの存在になりたかったのでは?」などと憶測が飛び交うが、これといった決定打は出なかった。ミゲルは放送当日、一度は番組を見ようとするが、結局見ることはできない。
しかし、翌日番組を見たという人からミゲルに電話がかかってくる。フリオに似た人物が高齢者施設にいるというのだ。ミゲルは高齢者施設に向かった。その男は過去の記憶を失っていた。様子を見るために何泊かすることにした。フリオに間違いないと確信したミゲルは、フリオの娘のアナも呼び、話をするもフリオは記憶を呼び戻すことはない。
フリオは近くの映画館で、未完成の映画『別れのまなざし』のラストシーンをフリオに観させることにした。記憶が戻るかもしれないと考えたのだ。
映画のラストシーンでは、フリオが演じる主人公が有力者の元へ、依頼されていた娘を連れて帰る。しかし有力者は病で瀕死の状態だ。娘の膝の上で、有力者は息を引き取った。
映画を観たフリオはそっと“瞳をとじて”何かを想っているようだ。
(感想)
寡作の映画作家ビクトル・エリセ(1940~ 83歳)の31年ぶりの新作です。ビクトル・エリセ監督といえば1973年(日本公開は1985年)に制作された映画『ミツバチのささやき』です。“日本のミニシアター”隆盛の一翼を担った映画です。私も若い頃、『ミツバチの…』を観ました。「難解だな」と思いました。
彼が作るのは、観客の知識が試される映画です。例えば、フリオの娘役は「アナ」という名前の中年女性でした。そして前述した映画『ミツバチのささやき』の5歳の主人公の名前も「アナ」です。『ミツバチの…』のアナは最後に窓辺で、「私はアナ」と呼びかけ、“目をとじ”ます。この、目を閉じて、呼びかければいつでも会えるということが、そのまま『瞳をとじて』の主題へと受け継がれており、重要な要素です。「私はアナよ」というセリフは、『瞳をとじて』のなかで繰り返されます。なんと50年の時代を経て、同じ女優さんが、同じ「アナ」を演じています。感動しました。
次に、フリオは記憶を取り戻したのかということについて書きます。映画のエンドロールで、庭の彫刻「ヤヌス神」が映されました。それはギリシャ神話の時間の神です。前後を向く二面像。一つの顔は過去を向き、もう一つの顔は未来に向き、物事の始まりと終わりを見ています。「ヤヌス」はJanuary(1月)の語源であり、物事の始まりの神です。私は、フリオは記憶を取り戻したと考えています。
さて最後に。あなたは起承転結が曖昧な映画は好きですか? 膨大な情報量で観客を引っ張り、作者が自己の世界観を語り続けるような作品です。う~ん、私は好きなような、苦手のような…。微妙です。
ただ、年老いた映画監督が作る、そのような映画は説得力があるし、味わい深いと思います。
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